2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期9課 祝福あれ、主の御名によって来る人に
【日・自己犠牲的な聖なる羊飼い】
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
主なる神は羊飼いとして、また神の民はその御手の羊にたとえられています。羊飼いという職業は最も古い職業の一つで、約5,000年前の現在のトルコに属するアナトリア半島が発祥と言われています。羊飼いの仕事は、主に羊を保護し、飼育し、放牧することです。そのような羊飼いに神様が、そしてその羊飼いに飼われている羊として神の民がたとえられているのは、神は民をいつも守り、養って下さる方であることを表しています。詩篇記者はそれゆえに、「わたしには何も欠けることがない」と言っています。そして、「命のある限り…主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23編6節)と信仰告白しているのです。また、イエス様は羊飼いとしてのご自分のことを次のように話されました。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10章14節)
イエス様は私達一人ひとりのことをよく知っていて下さり、そして文字通り、私達を救うために十字架で命を捨てて下さったのです。
【月・苦悩するメシア】
詩編22編 2節
「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
試練や苦難の中で神様から見捨てられてしまったのではないかと感じたことはないでしょうか。そのように感じることがあったとしても、羊飼いであるイエス様は決して私達をお見捨てになることはありません。しかし、そのイエス様はいつも一つだった父なる神様から見捨てられたのです。それは私達を罪の滅びから救うために自ら私達の罪を背負い、罪人の一人と数えられ、父から引き離されたのです。本当の意味で神様から見捨てられたのは、御子だけなのです。
「われわれの身代わり、また保証人として、キリストの上にわれわれ全部の者の不義が置かれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなうために、キリストは罪人に数えられた。アダムの子孫一人ひとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の恐るべきあらわれが、み子の魂を驚きと恐れで満たした」(『各時代の希望』第78章)。
しかし、父なる神様から見捨てられ、私たちの身代わりとなって死んで行かれたイエス様は、三日目に復活されたとき、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」(詩編118編22節)との預言が成就したのです。滅びるしかなかった罪人たちが、イエス様を土台として生きることができるようになったのです。
【火・契約に永遠に従う】
サムエル記下7章10節
「わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない」
預言者ナタンはダビデに神様の言葉を告げます。それは神様がダビデと結ばれた契約で、彼の王座と家系、そして王国が永遠に確立されるというものであり、神の民の繁栄を約束するものでした。この契約を土台として、イエス様が再臨され、来るべき新天新地を治めることが保証されています。
神様は「契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」(詩編89編35節)と言われます。しかし、この契約の永続性は、神様に対する神の民の忠誠の上に成り立っていました。ダビデのように優れた王でもしばしば過ちを犯し、神の裁きが臨んで、契約が破棄されてしまったのではないかと嘆いています。しかし、それに対して神様はこう言われるのです。
詩編89編33、34節
「彼らの背きに対しては杖を、悪に対しては疫病を罰として下す。それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。」
「聖なる山シオンで、私は自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ」
父なる神様は御子イエス様をこの地の王として立ててくださいました。「私は自ら」と言う言葉は、『我こそは』と強調する言葉です。父なる神様自らがイエス様をこの地上の王とされたのですから、もはや誰もそれを否定することはできません。
詩編110編1、2節
「わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ」
敵を「足台」にするというのは、古代近東の王たちが、敗れた敵の首の上に自分の足を置いて、敵に対する完全な支配を示す習慣を反映した比喩であり、王なるキリストの勝利が宣言されています。シオンから御子の支配がはじまるのです。杖は裁きの象徴としても出てきますが、同時に、羊飼いが手にもち羊を導くためのものですから、王なるキリストが民を正しい方へと導かれることが強調されています。
【木・メルキゼデクのような永遠の祭司】
創世記14章によると、メルキゼデクはサレム(エルサレムを指す古称。「平和」「平安」を意味するシャーレームが語源)の王であり、かつ、いと高き神の祭司でした。メルキゼデクという名には、「義の王」、「平和の王」という意味があり(ヘブライ7:2)、また彼はアブラハムを祝福し、アブラハムも彼にすべてのものの十分の一をささげたと記録されています。つまり、信仰の父であるアブラハムの上に立つ王であったということです。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」(詩篇110:1)と言われた神様は、御子に対して、「あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)」と言われました。これは、すべての者の上に立つ王、平和の君、そして同時に罪を取り除く祭司であるということを表しています。ヘブライ人への手紙7章4節で、「この人(メルキデゼク)がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです」と言われていますが、ユダヤ人であれば、これ以上偉大な人物はいないということを直感的に理解できたことでしょう。イエス様はそのような、永遠に私達神の民の王であり祭司なのです。
(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH